150ヤードの左のラフからピン左横につけたバーディチャンスは1.5メートル。
懸命に息を整えねじ込んだ。
「人生で一番震えるような緊張感でしたけど。ゴルフ人生で一番気持ちよかった。課題のパットを打つことができた」。
プロ4年目の初美酒は、苦難脱却の合図でもあった。
東北福祉大2年時の2019年「アジアパシフィックダイヤモンドカップ」で2打差の2位を記録するなどアマVにも迫った逸材が、突如、パットで手がうまく動かなくなるイップスを発症したのは、プロ転向直前の21年。
「パットを打つのが怖かった」という。
その恐怖は「言葉では表しにくい。外れる回数が多くなると自信も削られていく感じ」。
技術なのか、メンタルなのか、いずれもなのか。
「なんでそうなったか」。考えても答えは出ない。
「人に聞いたり、試したり」と、格闘が続いた。
アマ選抜のナショナルチーム時から師事するジョーンズコーチら恩人に励まされ、勇気づけられ、この日を迎えた。
「自分の意地ではないですが、ここで絶対決め切って、今まで苦しんできたことを払拭してやろうと思った」。
悩み続けた月日が凝縮したパット。
渾身の1打がカップに沈むと、ガッツポーズが自然と出た。
1差の辛勝で、過去の自分に打ち克ち、蓮が結実した。
米澤に競り負けた片岡尚之(かたおか・なおゆき)は、大学の2つ先輩だ。
ひょうひょうとしているようでいて、「強い芯を持っている」と、後輩を評する。
またスコア提出所で迎えてくれた金谷拓実(かなや・たくみ)は、ひとつ先輩。
「もっともっとと上を目指してやっていた姿を知っている。勝負強い選手と思うしぜひ、結果に結びついてほしい」と自分事みたいに願っていた。
やっと勝利を持って帰った後輩をぎゅっと抱いた。
金谷が、2019年の「三井住友VISA太平洋マスターズ」で史上4人目のアマVを達成した時も、20年のダンロップフェニックスでプロ初優勝を飾った際にも、いつも隣で快挙を祝う米澤の姿があった。
金谷だけでない。
同世代の選手が活躍するたび、いつも笑顔で祝福してきた。
「自分にも、焦りがなかったわけじゃない。でも、人によってピークは違う」と、こらえた。
「思うようにいかない時期もあったが、そういう時期があったから勝てた」と、やっと言えた。
この日も苦しい場面を幾度も救ったのは、きわどいパーパットだ。
片岡に追いつかれた13番で、砂に埋もれたバンカーからやっと出した5メートル超をしのいで、15、16番では立て続けに約1メートルを拾い、差を与えなかった。
もつれこんだ最終ホールで努力の成果が結実した。
昨季賞金22位で県勢初のシード選手となってすぐ、県勢初の勝者になった。
同じ岩手の大谷翔平さんは確かに、「勇気や感動を届けている素晴らしい選手。知らない人は絶対にいない」。
でも、ジュニア期から河川敷で一人、黙々と1日4ラウンドを重ね、雪深い冬は自主トレで体を鍛え、「東北ジュニア」で5勝、盛岡中央高校時代は「東北高校選手権」で3連覇。
宮城・仙台の東北福祉大時代はアジア大会で、金谷や、中島(日体大)らと金メダルにも貢献した。
盛岡市内に幾度もV垂れ幕を飾ってきた米澤が、どれだけ努力と鍛錬を重ねてきたか。
地元で知らない人はいない。
プロ入り後は岩手めんこいテレビのサポートを受け、岩手日報には、専用の応援サイトもある。
V会見を終える間もなく、地元メディアの取材要請が舞い込んでいた。
大谷さんは、全国の小学校にグローブを届けた。
「僕も同じようにはいかなくても、少しでも届けられるように」。
米澤も、身銭をはたいて初心者用具のスナッグゴルフを購入。ジュニア指導も始めた。
「自分が優勝することや、全力でプレーすることで盛り上がってくれれば」と、願う。
「賞金王になりたいというのが今年の目標。ゆくゆくは海外でも通用できるように」。
でも、どんなに遠くに出かけても、必ず岩手に戻るのだろう。
「見ず知らずの土地で過ごすとエナジーが下がってく。携帯が、充電切れみたいになる感じに」。
頑張れるのも、いつでも温かく迎えてくれる人々が待っていればこそ。